結局ボランティアって誰のため?『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』(渡辺一史著 文春文庫)感想

こんばんは、うめこです。

近頃の災害ニュースの中で、チラホラ「ボランティアが足りない」というフレーズを聞きますね。
前に東日本大震災の津波で家を失った人が、新たな家を建てるまでを綴った『ナガサレール イエテール』というエッセイ漫画で、ボランティアの手助けが物凄い力となったと描かれていたのを思い出しました。これもお勧めです!

 
ナガサレール イエタテール

今回取り上げる『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたちはある意味ボランティア達が主役のルポルタージュです。大泉洋主演で映画化もされていますね。本当は映画も観た上で記事を書きたかったのですが、ドケチうめこは旧作になってから観たいと思っております。


こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち (文春文庫 わ)

ボランティアの現場、そこは「戦場」だったー筋ジストロフィーの鹿野靖明さんと、彼を支える学生や主婦らボランティアの日常を描いた本作には、現代の若者の悩みと介護・福祉をめぐる今日的問題のすべてが凝縮されている。講談社脳フィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞した名著。

『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史著 文春文庫 裏表紙あらすじより引用


さて、皆様、ボランティアってやったことはありますか?

内閣府の子供・若者白書 令和元年版によりますと、日本の青年はアメリカ、韓国、イギリス、ドイツ、スウェーデン、フランスの中で最もボランティア経験が少ないという結果が公表されています。

これはうめこの勝手な考察ですが、これは日本人の「偽善」を嫌う潔癖さも影響としてきるのかな思うのです。

まず、偽善とは何でしょう?

特に宗教や道徳的信念に関し、真の性格・性向を隠す一方で、美徳または善といった見せかけの外観をつくることを言う。したがって、一般的な意味において偽善には「不誠実なそらとぼけ」、「見せかけの振りをすること」、または「まやかし」が含まれることがある。偽善的な行動とは、他を批判するのと同じ行動を自らも行っていることを指す。

Wikipedia より

ここまで難しく捉えちゃうと大変ですが、要は「心の底からその人を思いやって行う善行でないと意味がない!」という思い込みが、ボランティア活動を「よその出来事」にしてしまう要因のひとつでもあるのかな、と思うのですよ。少なくとも、うめこ自身は。

しかし、よーく考えるとボランティアさんが台風で浸水した家の掃除をするとき、「住民の皆様の助けになりたい!」と思っての行動と「いいことしてる私、サイコー」と思っての行動は一見違うようでいて、技術のクオリティさえ同等なら残される結果は同じなんじゃないかと思うのです。

もちろん、「やってあげてる私」な偉そうな態度が行動に反映してしまい住民の方を傷つけるのならば論外ですが、行動がきちんとしていて人の手助けになったという結果があれば、ボランティアの心情は極論何だっていいとうめこは思います。

ちなみにうめこが唯一したことがあるボランティア活動は、学生時代に通ってた保護猫ボランティアのみなので、ちょっと参考にはならないかもしれません…。しかも、今は参加できていません。サンシャイン池崎さん、本当に尊敬しております。

さて、『こんな夜更けにバナナかよ』「ボランティアをする人々は結局何を求め、何を得られるのか」「障がいを持つ人々が自立するためには何が必要か。そもそも、何を指して自立と言うのか」というとても重くて複雑な問いを、とってもユーモアのある語り口で深く追及した名ルポルタージュです。

中心となる鹿野さんを筆頭とした、完全な善人も悪人も登場しない、ただただ「人間くさい人間」同士の集まりの記録と言えます。

すべてのことができない人

まずは著者の渡辺一史さんについて。昭和43生まれのノンフィクション・ライターで、生まれは名古屋市。大学時代から北海道へ移り住み、そこを拠点として数々のノンフィクションを書いていらっしゃいます。

ある日、著者がお世話になっている新聞社の編集長から呼び出され、新聞記事に取り上げられたボランティアの24時間体制の介助によって生活している鹿野靖明という人物について本を書かないかと依頼を受けるところから、著者と鹿野氏の長い付き合いが始まります。

鹿野氏の紹介を引用させてもらいますと、

鹿野靖明やすあき。40歳。「進行性筋しんこうせいきんジストロフィー」という病気をわずらっている。全身の筋力が徐々に衰えてゆく難病である。効果的な治療法はまだ解明されていない。

 筋ジスだと医師に告げられたのは小学校6年生のときだった。以来、中学・高校を養護学校(現在の特別支援学校)で過ごし、18歳のとき足の筋力の低下により、車いす生活となった。32歳のとき心臓の筋力低下により、拡張型心筋症と診断された。

 一年ほど前から首の筋力低下により、ほとんど寝たきりの生活になっていた。動くのは両手がほんの少し、という第1種1級の重度身体障害者である。

『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史著 文春文庫 7頁より引用

ざっくりと鹿野氏の紹介の後、著者はこう続けます。

できないといえば、この人には、すべてのことができない。

『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史著 文春文庫 7頁より引用

しかし「すべてのことができない」というこのプロローグの言葉を、鹿野氏がいかに裏切っているかが次々と綴られていきます。

うめこが経験していない結婚を、鹿野氏はしていますからね!離婚されてますが。

まるでコンビニ!ボランティアとのシフト生活

鹿野氏は前述した通り、24時間体制の介助を必要としていまして、一部、有償のヘルパーの手も借りつつも、主に学生や主婦による大勢のボランティアが彼の生活を支えてきました。これは呼吸するための筋力が衰えているため人工呼吸器という機械を装着しているため、誰かが傍にいて呼吸器や気管内にたまる痰を吸引しなくてはならないからなのです。この処置が適切に行われないと、窒息してしまうのだそうです。

うめこは風邪をひくと、ものすごく喉が腫れるタイプです。そうなると一晩中咳と痰との闘いになるのですが、これが本当にしんどい。鹿野氏の状況は全然違うと思いますが、呼吸を阻害する痰の恐ろしさや苦しさを想像するとぞっとします。

さて、もしかして医療関係者の方がいらっしゃったとしたらこの鹿野氏の生活について疑問を感じたのではないでしょうか?

うめこはこの本で初めて知りましたが、本来痰の吸引は医療行為とされ、医療従事者にと例外的に許される肉親・家族のみ許可されるのだそうです

あれ?ボランティアって、学生や主婦ってさっき言ってたじゃん!だめじゃん!

って突っ込みが聞こえてきそうですね。

ここで鹿野氏の強さが垣間見えます。彼は

「ボランティアも広い意味での自分の家族!!!」

と解釈して、この医療行為である痰の吸引を依頼していたのです。この押しの強さが、鹿野氏の人となりを象徴しているようにうめこは思いました。逞しい!

補足しますと、この関係性はもし吸引ミスで最悪の事態を起こったとしても、ボランティアの責任は問わないという鹿野氏の決意の元で成り立っていたと著者は記述しています。

さて、鹿野氏の介助は

「昼」・・・午前11時~午後6時 (1人)

「夜」・・・午後6時~午後9時 (1人)

「泊まり」・・・午後9時~翌朝11時 (2人)

というまるでコンビニの交代シフトのように時間できっちり分けられています。1日につき計4人で。単純計算で月のべ120人。すごすぎる!

鹿野氏介助のボランティアに参加する人は様々。超便りになるベテラン主婦から、おしゃれなギャル学生まで色んな人が色んなきっかけで集っています。

そしてそのボランティアたちが各々の気持ちや伝達事項を綴った交換ノートは「介助ノート」と呼ばれ、著者が取材を始めたころにはすでに80冊になっていました。この介助ノートの記述がちょいちょい引用されるのですが、学生たちの生の声が本当に味があっていいんですよね。ちょいちょい鹿野氏からの返事やボヤキもあったりして、交換日記を思わせます。

98/11/20(金)山内

ただ暇だったし、何となくやってみるかっていう気で始めたボランティアだったが、いつのまにか「鹿野さんのために行ってるんだ」という自分がぶっ飛んで、何というか、自分のためというか、うまく言えなくけど、鹿野さんを通して自分を知る、鹿野さんに自分を教えてもらいに行く、という自分が今いるような気がします(かっこつけてるような気がするけど、実際は文章で書けないくらいドロドロした自分がいっぱいあるのです)。

『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史著 文春文庫 117頁より引用

98/5/24(日)鹿野より

昨晩は、夜中に突然の来訪があり、驚きました。泊まりのボランティアの恋人が、おしかけてきたのです。自分のカノジョが、ボランティアを口実に外泊して遊んでいるのではないかと疑って、本当にボランティアをしているのかどうか、確かめに来たというのです。

『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史著 文春文庫 163頁より引用

ちなみに、このボランティアでの出会いがきっかけで結婚に至ったカップルも何組もいたそうで!

「バナナ食べたい!」伝説のバナナ事件

さて、タイトルの元になったも「バナナ事件」と呼ばれるエピソードが、鹿野氏とボランティアの関係をとてもよく象徴しています。

呼吸器の筋力が弱くなり、入院して人工呼吸器を取り付けなくてはならなくなった鹿野氏。深夜の付添をしていた学生ボランティア・国吉さんは鹿野氏に起こされてしまいます。

「なに?」と聞くと、「腹が減ったからバナナ食う」と鹿野がいう。

「こんな真夜中にバナナかよ」と国吉は内心ひどく腹を立てた。しかし、口には出さない。バナナの皮をむき、無言で鹿野の口に押し込んだ。2人の間には、言い知れぬ緊張感が漂っていた。

『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史著 文春文庫 45頁より引用

眠気を堪えてゆっくりとバナナを食べさせ、やっと終わった・・・と眠り直そうとする国吉さんに、まさかの一言が投げかけられます。

「国ちゃん、もう一本」

なにィー!という驚きとともに、そこで鹿野に対する怒りは、休息に冷えていったという。

『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史著 文春文庫 45頁より引用

真夜中によくバナナを二本も食べられるなー・・・とうめこは思いますが、それは置いておきまして。他人の「自分はこれをしたい!」と求める遠慮のなさに、逆に刺々しい気持ちが失せてしまうということは何となくわかるような気がします。

「やってあげる私・僕」「それを謙虚に感謝する鹿野氏」というありがちな構図を想像してボランティアに首を突っ込んできた学生は、まずガンガン我が儘を言ってくる鹿野氏に面食らいます。バナナ事件はもちろん、鹿野氏の要求はなんとAVのレンタルにまで及んだとか…!

人の手を借りて生きるということ

うめこは自分が介助してもらう立場だったら…と想像して、鹿野氏ほどに自分のやりたいこと、要求を貫ける自信がありません。しかし、一歩進んだところまで想像すると、「自分の気持ちを全部押し込んで生きること、それは自分の人生を生きていると言えるのだろうか」という問いが生まれてきました。

「他人に頼ってまで自分のやりたいことを主張するのはいかがなものか」という意見もあるでしょう。…というか、最近、表に出てくる意見(主にネット上の)はそちら寄りであるようにうめこは感じます。しかし、そうなると鹿野氏のように生まれつき人の手を借りないと生命を維持することすら難しい人たちのアイデンティティを守ることそのものを、否定することにならないかと思うようになりました。

ここからはあくまでうめこ個人の考えです。異論を感じる方もいっぱいいると思います。

社会が発達すること、国として秩序が生まれること、文化が成熟すること、それは色んな立場の人が「自分として生きること」を認めていくことに繋がることであり、自力では生きることが出来ない人にもそれが与えられるのが当然になっていることが、人が共同体を築いていくことの目的のひとつなのではないか…と思うのです。たとえイケイケの資本主義国家であっても、土台となる国の制度はそこそこ整えてありますよね。

もっと乱暴な言い方をすると、誰だって何か頼って生きているとうめこは思います。うめこはJR や東京メトロがないと楽しく生活出来ませんし、豚を育てる農家、それを殺す屠畜所、小麦から麺を作る職人がいてこそ、大好きな豚トロチャーシュー麺を食べられるわけです。

それはお金を払ってるから!等価交換だから!って突っ込まれそうですが、そのお金を貰うためのプロセスには労基署を始めとする、国の制度からの保護が必要不可欠です。ここまで成長しておばちゃんになるまでに、ワクチン摂取だの、検診だの、がっつり社会制度のお世話になってるんですよ。

なので、誰もが「何かに頼り、色んな人や社会に生かしてもらってる」わけであり、うめこと鹿野氏は単にその度合いが違うだけ、根本は同じ!と思うのです。

たとえ、山奥で自給自足で生活し塩だけ町に買いにいく…というご隠居であっても、塩の製造に関する制度や、ご隠居の住む山に放火をすることを禁じる国の制度に守られている…てことで、どこにいても「他者に守られること」からは逃れられないのだと思います。

もちろん、鹿野氏が病院の外で生きるにはボランティアを自ら募集しなくてはならなかったことに象徴されるように、社会の仕組みはこれから成長しなくてはならない部分も多々あります。

それをどうしていったらいいだろう?というのも、この本が読者に提示する大切な問いかけのひとつです。

「困ってるひと」(大野更紗)を読んだときも感じましたが、お馬鹿なうめこはまず世の中で何が起こっているのか・社会にはどんな問題があって、どんな制度があるのか、現状を知ることから始めないといけないな、と痛感します。

ボランティアは誰のためにする?

ボランティアたちは、素直に生きる為の我儘を主張する鹿野氏と共に過ごしているせいか「何故ボランティアをするのか」という著者の問いにたいしても、驚くほど率直な内面を語ります。鹿野氏のつよーい自我に触れることで、前述した「ボランティアは偽善ではいけない、心からの思いやりからやらなくてはダメ」という思い込みからいい具合に抜け出すことが出来ているのかなあと感じました。

ボランティアは「人のため」というか、それ以前に、みんな自分をどうにかしてほしいと思って飛び込んでくるのかもしれない。

『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史著 文春文庫 45頁より引用

このフレーズがうめこにはとっても新鮮で、かつしっくりきました。

もしもうめこ自身がボランティアさんにお世話をしていただく身になったとしたら、正直うめこは「いや、あんたのためじゃなくて自分のためだから」と淡々とやってくださる方がどんなにか楽かもしれません。

ここでは紹介できませんでしたが、鹿野氏を含む、様々な自力では困難な障がいを持つ方々が結束し、どうにか自立して病院や施設で生きることができないか奮闘するエピソードも本当に読み応えがありました。特に、鹿野氏も所属していた「札幌いちご会」という障がい者の福祉団体の代表を努める小山内美智子氏という方が登場するのですが、彼女の著書も是非読んでみたいなと思いました。

 
車椅子で夜明けのコーヒー―障害者の性

次は是非映画を!(旧作レンタルになったら・・・!)

ではでは。

 
こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 [DVD]

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