これが本当に50年以上前に書かれたの?!デジタル社会への警鐘をならす名作中の名作SF 『華氏451』レイ・ブラッドベリ 伊藤典夫訳 早川書房

こんばんは、花粉の驚異に振り回されまくりのうめこです。今まで薬を飲むほどではない軽症だったため油断していたら、大変なことになってしまいました。鼻水の無い生活ってどんなんだったっけ?という感じです。

さて、かなり長いこと小説離れをしたいうめこさんですが、久しぶりに名作を読み返したのでこのブログ初の小説のご紹介です!

『華氏451』(レイ・ブラッドベリ 伊藤典夫訳早川書房)でございます。

 
華氏451度〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

学生の頃にこの作品は一度読んでいるのですが、今回はSF 編集者が「SF 翻訳界の星新一」と絶賛する伊藤典夫氏による新訳バージョンでの読破でした。

前述したとおり、年単位で小説離れをしていたので読むのに苦労しなければいいけど・・・という心配をしながら本を開いたのですが、結果として杞憂でした。

面白いものは小説だろうがフィクションだろうが漫画だろうが面白い。

ということで、夢中になって読んでいました。しかも結末をある程度知っている小説なのに、そこに行きつくまでの過程において何度も新鮮なドキドキを味わえることに驚きました。

まずは作者のレイ・ブラッドベリについて簡単にご紹介。

1920年、イリノイ州生まれ、1927年に最初の短編集『黒いカーニバル』が刊行され、り1950年にはブラッドベリの最高傑作といわれる『火星年代記』が、1953年にはディストピア的未来世界を描いた長篇『華氏451度』(本書)が刊行された。そのほか、『刺青の男』(1951)、『太陽の黄金の林檎』(1953)、『よろこびの機械』(1964)と、基層に満ちたイメージ豊かな短編集を発表しており、ブラッドベリの名声と評価を不動のものにした。2012年、91歳で死去。

『華氏451度』(新訳版)レイ・ブラッドベリ 伊藤典夫訳 早川文庫 カバー著者紹介より引用

 
火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

SF年代史に名前を刻む超大御所ですが、うめこがこの方を好きになったのは『たんぽぽのお酒』というSFとはかけ離れ牧歌的な小説がきっかけだったんですよね。文章や言葉の流れそのものに「なんて綺麗なんだろう」と非常に感銘を受けたのを覚えています。少年のひと夏の日常を丁寧に描いた作品で、大きな事件が起こったりドキドキハラハラがあるわけではないのですが、妙に心に染みる不思議な作品でした。

 
たんぽぽのお酒 (ベスト版文学のおくりもの)

SFと言うと『スターウォーズ』や『ターミネーター』のようなど派手なハリウッド超大作が頭をよぎったりしますが、ブラッドベリの作品はとても抒情的で、哲学的ですらあります。なので、ちょっと難解な部分もあるので好みが分かれるかもしれません。うめこはど派手もブラッドベリもどっちも大好きです。

さて、原作者はもちろん大切に決まっているのですが、海外文学においては実はもう一人、大事な大事な方の存在が必ず存在します。この方の腕によっては、名作がよくわからん駄作に落ちることすらあり得るというとても大事な役割の方・・・それは翻訳家です!

今回ご紹介したタイトルに(新訳版)とあるのにお気づきでしたでしょうか?

そう、海外小説は翻訳者が変われば、もう一度別の版として出版する価値があるのです。そのくらい、翻訳者の存在は大きいのですよね。

余談ですが、うめこは小さいころからもうバイブルと言っていいほどに『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルべり・フィンの冒険』(マーク・トウェイン)が大好きで、いろんな翻訳者で読み比べをしたことがありました。その中で印象に残っているのが、『ハックルベリ・フィンの冒険』で少年の一人称を「私」と訳していた本があったのですよね・・・申し訳ないのですが、うめこにとっては違和感の嵐でなかなか読み進めることが出来ませんでした。

外で気ままに暮らす浮浪児の一人称・・・どう考えても、「俺」か「おいら」でしょう。ちょっと品よくしようとしても、「僕」までにして欲しかった・・・。

それだけ、翻訳者と読み手の相性は、その作品を素直に楽しめるかどうかということに影響があるということです。

そして、本書の訳を手掛けられている伊藤典夫氏は「SF翻訳界の星新一!」と絶賛されるお方でございます。大事なことなので二回目。

何せ、彼の翻訳の作品集が早川書房から出版されている方ですから、只者ではありません。

 
伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ (ハヤカワ文庫SF)

ヴァーチャルとの会話に耽溺し、日常の小さな美しさから目を背けた社会

さて、肝心の作品紹介にようやく入ります!

『華氏451度』はよく「ディストピア」と称されるその世界観そのものに、作者の主張や思いが込められている作品であるとうめこは思います。

舞台は様々な技術の発達した未来のアメリカ。人々はリビングの四方の壁に巨大なテレビ(作中ではラウンジ壁と呼ばれる)を備え付け、そこで流れる映像や人々の会話をぼうっと眺めたり聞いたりすることに執着するようになっていました。そして、ここでは書物は人々に危険な思想をもたらす最も害悪なものとされ、主人公のモンターグは隠された本を暴き出して焼いて回る「昇火士(ファイアマン)」という職業に就いています。

この世界、多くの人々がテレビに夢中になっている一方、それらに目もくれず自然や目の前の人々の様子に心を傾ける少女や文学を愛する人々は「異常者」としてひっそりと消されていってしまいます。その世界の異常性が淡々と当たり前のように描かれる様が、ひやりとした静かな恐怖を誘います。しかし、都合のいい情報や心地いい刺激だけを与え続け、人々の思考を統一させ、多様性を否定する世界。これ、似たような試みは歴史の中で繰り返されていますよね。SFは一見、荒唐無稽な想像力の産物と思いきや、その突拍子もない世界の中に、こうした「自分の身近にあること、ありうること」が隠されていることがあります。異世界や未来の世界を通して、自分の住んでいる環境を覗いている感覚といいますか。そここのジャンルの魅力でもあるとうめこは思います。

うめこは最初に読んだときも感じたのですが、目の前の人や自然を無視してデジタルの世界に没頭する人々は今の我々の社会のことじゃないの?と思えます。会話なしでスマホに没頭するグループ、カップルを見ない日はありませんよね。それが全て悪いと言い切ることはできませんが、その光景をついつい『華氏451度』のディストピアと重ねて見てしまいます。

うめこも、出来るだけスマホは必要情報を調べたりメッセージをやり取りする時の使用に抑えたいと思っているのですが、ダラダラと流れてくる情報をぼうっと眺めている時間がどうしても発生してしまいます。そういう「脳みそ停止状態」が良いわけはないとはっきり悟っているのですが、中々やめられません。まあ、これは依存症と脳の報酬系の問題となってきますので、この記事ではそろそろ止めておきますが。

さて、主人公モンターグはずっとこの世界に疑問を抱くこともなく黙々と書物を焼いてきたのですが、隣に住む風変りな少女クラリスとの出会いや、書物と共に焼け死ぬことを選んだ老婆と遭遇したで、「当たり前」と信じてきた自分の身の回りの世界に恐れを感じ始めます・・・

あとがきにて、ブラッドベリが二人の老夫婦が散歩をしているのを見たときのことが書かれています。二人の間に会話はなく、妻はイヤホンでラジオを聴いている。その光景に、ブラッドベリは「われわれの変わりゆく社会に新たに生まれでた現象なのだ。お察しの通りで、未来世界を描くためには、わたしは大変なスピードで書かなければならない。未来は立ち止まってはくれないぞ」と焦りを吐露します。

ラジオをきっかけにこの作品を書いたブラッドベリですが、亡くなった2012年にはすでにスマートフォンは世界中に普及していました。その世界を彼はどんな目で見ていたのか、うめこは気になって仕方がありません。

ではでは。

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